「考えもしなかったもの」を目指してみるというのはやはり楽しいもので、ああでもないこうでもないとやっているのは程よい刺激になり、良い。だが、あるタイミングで毎度のように「法則性」に気付く瞬間があり、そこであっという間にやる気がなくなってしまう悪癖がある。例えばゲームをやっていても、全く新しいゲームを感覚的に取り組んでいるうちはそれなりに刺激もあり楽しくやっているわけだけれども、「ここでこうするとこうなる」のような仕組みが分かってきてしまうと、「ここではこうすればよい」というのがどんどん見えてきてしまって、なんだかやる気を失ってしまう。育成ゲームとか、乱数設定が雑なものだったりはおおよそこの傾向があるように思っていて、先が読めてしまうとその先にはもう何もないような感覚になってしまう。
先のない感覚。ゲームと人生の違いは何だろうか。このNintendo Switchと私の体に果たしてどれほどの違いがあるというのか。今はもうありとあらゆる設計図が暴かれ、誰の手にも渡るような時代になってきている。我々もまた設計図のもとに作られた工業製品でしかない。
一時期のインターネットが「究極の共有知」のようなものを目指し頓挫したことは記憶に新しいが、果たして「究極の共有知」を手に入れたときに私自身は私のことを、何とも違う私自身として捉えることはできるのだろうか。すでにそうではない兆候は感じられていて、とくにここ半年ぐらいはどうも自分と世界との輪郭がわからなくなってきつつある。車を運転しているときなど特に危ない。
それでも、ある一つの感覚だけは他の何にも譲れない私だけの感覚だ、と思うこともある。それだけを信じて生きていきたいものだが、幾重にも揺さぶられる瞬間は訪れる。改めて感じるが、孤独である。孤独の表裏一体の中にいる。