これからの人生のためのメモ62

 「考えもしなかったもの」を目指してみるというのはやはり楽しいもので、ああでもないこうでもないとやっているのは程よい刺激になり、良い。だが、あるタイミングで毎度のように「法則性」に気付く瞬間があり、そこであっという間にやる気がなくなってしまう悪癖がある。例えばゲームをやっていても、全く新しいゲームを感覚的に取り組んでいるうちはそれなりに刺激もあり楽しくやっているわけだけれども、「ここでこうするとこうなる」のような仕組みが分かってきてしまうと、「ここではこうすればよい」というのがどんどん見えてきてしまって、なんだかやる気を失ってしまう。育成ゲームとか、乱数設定が雑なものだったりはおおよそこの傾向があるように思っていて、先が読めてしまうとその先にはもう何もないような感覚になってしまう。

 先のない感覚。ゲームと人生の違いは何だろうか。このNintendo Switchと私の体に果たしてどれほどの違いがあるというのか。今はもうありとあらゆる設計図が暴かれ、誰の手にも渡るような時代になってきている。我々もまた設計図のもとに作られた工業製品でしかない。

 一時期のインターネットが「究極の共有知」のようなものを目指し頓挫したことは記憶に新しいが、果たして「究極の共有知」を手に入れたときに私自身は私のことを、何とも違う私自身として捉えることはできるのだろうか。すでにそうではない兆候は感じられていて、とくにここ半年ぐらいはどうも自分と世界との輪郭がわからなくなってきつつある。車を運転しているときなど特に危ない。

 それでも、ある一つの感覚だけは他の何にも譲れない私だけの感覚だ、と思うこともある。それだけを信じて生きていきたいものだが、幾重にも揺さぶられる瞬間は訪れる。改めて感じるが、孤独である。孤独の表裏一体の中にいる。

これからの人生のためのメモ60

 何を書きたいか、と考えて書いてみる。その次の瞬間には、「これが間違っているんじゃないか」「ここはどういう描写が正しいのか」みたいなことを考えてしまっている。ある一般会社員を主人公とするのなら、彼の会社は何人規模で、業務は何で、彼の部署は何で、給与はいくらもらっていて、勤務時間は何時間で、有給休暇はどれくらいもらえていて。

 そうではないんじゃないかと一瞬考えてしまう。細部の正しさを伝えたいために何かを書くのではなく、もっと大きなものを伝えたいために何かを書こうとしているはずなのに。1日で1時間もまともに取れないような執筆時間の中で、細かいことの正誤を確認しに向かうというのはなかなか骨の折れるというか、うんざりするところがある。

 自分の伝えたいことをうまく言葉にすることができない、と悩んでいる子の話を聞いた。そうだな、と私も共感した。私もまた、自分の伝えたいことをうまく言葉にすることができないままでいた。その子は、友だちに対して思っていることを伝えられないのだ、先生に対しても家族に対してもそうなのだ、と言っていた。なぜそう感じるのか。そう感じたときにどうするのか。なぜ伝えたいのか。理由を聞いていくうちに、ひとつ気づいたことがあった。この感情は、明らかに父親から植え付けられている。なぜなら、少なくともその子の言いたいことは私には伝わっていたからであった。そうではなく、「お前は言っていることが分からない」という言葉を浴びせる父親の存在が、その子から自信を奪い去っていた。父親は明らかに、自分のために子をコントロールしようとしていた。

 強い関係性からもたらされる、操作の意図を持った言葉が、その子の真実を捻じ曲げてしまうのだな、と私は思った。これ以上捻じ曲げられないためにどうするか。私は「伝え方を先生に相談するクセを付けてみよう」と話した。先生に伝え方を学んでほしかったからではなく、父親以外の指南役、父親との関係性だけで完結しない世界をその子に持って欲しかったからだった。

 翻って、私はなんのために細部にこだわるのかを考える。それは、「強い関係性からもたらされる、操作の意図を持った言葉」を恐れているからかもしれないと思った。今の私にとっての「強い関係性」とは、質的な意味での父親ではなく、量的な意味でのSNSだと思った。市川沙央がチクチク言われ、石破茂がチクチク言われるような世界に、私もまた身を投じるのだと考えたときに、量的な「強い関係性」に対してひるんでしまう、要らぬ気を使ってしまう私がいるように感じた。戦う前からこの調子である。

 大きなことを伝えるために、無数の小さなことに気を配っていくうちに、大きなことが霧散してしまう。それではもう何のために小説を書こうとしているのか分からない。私は別に、小さなことの羅列で以って記号的な共感を得たいわけではないのに。仲間は欲しいけど、別にそういう仲間が欲しいわけではないんだ。とはいえそこにどうにか立ち向かわないといけないのではないか?と感じることもある。うーん。御託はいいからまずは書いてみろ、ということなのかもしれないな。