これからの人生のためのメモ57

 新書を多く購入したのだがあまりピンと来ない。

 「入門」というだけあって非常に柔らかい文体で書かれていて、すんなり読めすぎる。読めすぎてしまうせいか逆に読み進めようという気にあまりなれないという珍しい体験をしている。ガタリの説明が極めて簡易で、流石にもうちょっと難しい説明に触れたいなと感じさせるもので、そこからドゥルーズに進めなくなってしまう感じ。読んでいて、「脱構築というのは要するに止揚なのでは?」と知ったようなことを考えてしまった。ちなみにヘーゲルを読んだことは無い。軽く調べてみたら止揚があくまで構築的に物事を捉えていくことに対して脱構築はその通り「構築を疑う」ところに力点が置かれているので違いますよということだった。ただ、千葉が本書22ページで語るように、現代思想が「共に生きるための秩序を仮に維持するということが裏テーマとして存在している」というのであれば、この「仮に」の期間が明示されない以上はやっていることは本質的に止揚と大して変わらないのでは無いかというような気もするし、それが裏テーマであるうちはヘーゲルを抜け出せないようにも感じた。つまるところ「仮に維持」している時点で構築から抜け出せていないということ。ポストモダン的な発想には自分も大いに救われるところはあるのだが、いかんせんこういう小狡いところが見え隠れするところもあって全面的に好きになれるとはあまり感じない。

 

 少し読んだところで、ホッブズから始まるので「これはもう高校倫理の教科書を先に読んだ方がいいな」という気持ちになり、ストップした。なぜ高校生の頃に倫理を選ばなかったのだろうと少し後悔する気持ちが湧いたが、どっちみち大して真剣に学ぼうともしなかっただろうなと思い直して辞めた。とりあえず倫理の教科書は買ってみることにした。竹田は相対主義をこき下ろしているところがあって、それは千葉まで言葉を噛み砕くと「なんでもあり」のようになっているからなのだと思う。そうではなくて哲学というのにもそれなりに作法と秩序があるのだということを竹田は言いたいのだろう。千葉もそのことは平易に指摘している。

 ところで改めて思うのだが、いわゆる学問というものについて、落合陽一の言う「人間性を捧げよ」にしてもそうなのだがそうした「作法を学ぶ」というところから始まる時点でどうも腑に落ちないものがある。これもシンプルなものならいいのだが最初からフルスピードで「ついてこられないやつは置いていく」みたいなものだからタチが悪く、その時点でエリート的な思想が見え隠れする。そのエリート的な思想があるからどこぞの弁護士に「人文系の学者は役に立たない」などと言われてしまうのではなかろうか。上野千鶴子が東大の式辞で語っていたようなことは、紛れもなく竹田や落合にも当てはまるのだと思うのだが、彼ら自身はそうした自分の「恵まれている」をどのように捉えているのかは気になる。そんなこと意にも介さないのかもしれないが、だとしたらいよいよ「役に立たない」は甘受すべき言説になりかねないようにも見える。ついさっき、何かで「エリート対大衆という構図がそもそも古い」という指摘も見た気がするが、自分から見た時にはその構図はむしろ逆転的に加速している印象すら受ける。そりゃ明治・大正期の「金持ちは自分でがっつり鉄道作れちゃう」みたいな時代からすれば屁でもないのかもしれないが、それでもやはり不可逆的なものは存在していて、その傾向は強まっていると感じる。東浩紀が「専門家の時代」と指摘していたことを僕は指摘したい。

 

 多分なのだが、千葉にしても辻田にしても東にしても大体同じようなことを言っていて、それはつまり「ぼちぼちキツいぜSNS」みたいなことだと理解している。本書はその「ぼちぼち〜」を歴史の観点から捉えたもの。しかしこの界隈の「(一部の)リベラル滅ぶべし」的な言説はどうも気になっている。もちろん、日教組的なところから今も根付いている一部立憲民主の方々の唯我独尊、猪突猛進ぶりというのは自分自身もよく体感したことのあるものであり、あれで政権交代と言っているのだとしたら相当片腹痛いぜという気持ちになるのもまあよくわかると言えばよくわかるのだが、にしたってもうちょっと言い方あるんじゃないですかねというのもある。まあ、自分が体感しているよりもレベチなところで絶望しているのかも分からない。かといってその代替で出てくるのが斎藤幸平というのもよく分からない感じはするけれど。そんなことはさておいて、書かれていることは個人的にはすごく共感できるものが多くて、神話もうちょいうまく使ったらいいじゃん勢としてはもうちょっとこの本話題になったらいいのになとは思った。何せ今や学校では日本神話を学ぶシーンなどほとんどないのである、あれだけ天皇天皇言っているくせに。いや学校で天皇の話なんてほとんどしないけど。それもまた問題というか教科書の書き方はもうちょっと工夫のしようがあるんじゃないかと感じている勢なわけだが、それもまた一部唯我独尊な方々のパワーというのは相当強いのだろう。ところで今やキャンセルカルチャーパワーによってリベラルの方が力を持っているみたいに言っている方がいたがあれは嘘だと思う。

 

 そんなこんなで東浩紀に立ち戻る。「訂正可能性の哲学」を買おうと最初思ったのだが高かったし読み切れるか自信がなかったのでとりあえず「訂正」と銘打っているので新書の方を買った。東は本書で何度も「こういうことを言うと怒られるかもしれないが」という前置きを挟むがこれが何ともポリコレ的と言うか、別に言わんでもいいのになと思うところはある。一方で自分が聞き手になるイベントにおいて、語り手が「用意してきた話題しか話さない」ことについて困っていることを吐露したりする。まあ言っているだけ東の方が良いのかもしれないが、この前置きというのが何とも自分にとっては煩わしさの象徴だったりする。組織でのコミュニケーションというのもこんなのばっかりで、どうもこういう「謙虚さ」があると安心してやり取りできるみたいなものがあるらしいが、僕自身はこうした考え方にほとんど賛同できないので、やはり現代は生きづらいんだなと感じてしまうところではある。例えば怒りや悲しみの表出、あるいは何かを批判するという行為自体が否定的に評価されるシーンがあるというのはそれは良くわかるのだが、どうも一時が万事そればっかり気にしている瞬間があって、自分が一番居心地の悪さを感じるのはその瞬間だとも思う。これはまあ要するに自分がそういった「否定的な評価」に対して抵抗する術を持っていないからなのだと思うが。つくづく自分の特性が嫌になる今日この頃ではある。

 全体通して感じるのは、東にしても辻田にしても千葉にしても「SNS」的なものに対してすごく注意が向いていることがよくわかるのだが、少し各論により過ぎているのではないかというような気もする。これはもう現場に首を突っ込んでいかないと分からないことなのかもしれないが、SNSの諸問題を各論的に取り扱っても、それこそポストモダンでいうところの「小さな物語」をしらみつぶしにしていくだけで、竹田がいうような「超克」には繋がらないというか、あまり皆様が望むような効果にはならないのではないかと思うところもある。それこそ「脱構築」ではないが、SNSで繰り広げられる「レスバ」やら「誹謗中傷」みたいなものから一歩距離を置いた視点で物事を見られた方がいいんじゃないだろうか。1年ぐらいSNSから離れてみて、まあそれなりに何事もなく過ごせていた自分からするとそんなようなことを思った。あるいは、新書を購入する層というのが「ツイ廃」というだけなのかもしれないが。