これからの人生のためのメモ55

 「あんなにご家族だって泣いているのに、何も死ぬことなんてなかったのに」

 後ろの席に座っていた高校教員と思しき年配の女性が、その隣に座っている同じく年配の女性にささやいた。違う。そうではない。僕はそう叫びたかった。そうではないのだ。僕の知る限り、彼はとても勇敢に、自らを解放していった。いったい、あなた達は彼の何を知っているというのだろうか。そんな義憤と同時に、そうだ、知らないからどんなことでも言えてしまうのだ、とも思った。誰も彼のことを知らなかった。僕の知る限り、全てを知っていたのは僕しかいなかった。

 彼の家庭は決して恵まれているとは言えなかった。母と5人、歳の離れた弟がいた。彼が高校を出て社会人になった瞬間に一番下の弟が生まれ、それとほぼ同時に父は事故で亡くなったのだ。絶え間ない家庭内暴力の末の死別だった。父親は働きこそすれど、家に帰れば母を殴っていた。一番上の兄である彼が母を庇い、そのたびに彼も一緒になって殴られていた。弟達は母と兄が殴られるのをただ見ていた。顔は近所に分かってしまうからと、服で隠れる箇所を執拗に殴られていた。やがて落ち着くと母は布団のある部屋に連れて行かれた。そこで何があったかは、何となくわかると彼は話していた。

 誰も彼の家庭を助けようとはしなかった。母が妊娠する前後、父は暴力を振るわなくなっていた。病院に行くころには母の体のアザは無くなっていき、それに比例するように父の暴力も無くなっていったので、誰も気付くことはなく時間は過ぎていった。あるいは、気付いていても何もしようとはしなかったのかもしれない。あまり大きい町ではない。誰が何をしたかは、全てが広まる町だった。そんな町で、「何かが起こる」こと自体、あってはならなかったのかもしれない。彼は親戚の影を見たことがないと話していた。何があったのかはよく分からないが、そうだったと言っていた。

 なぜ父が暴力を振るったのかは分からないと彼は話していた。仕事のストレスだったのかもしれないが、それは分からない。父と会話したことはほとんどなかったと話していた。暴力が無くなっても父が話しているところは見たことがない。父は家庭訪問も授業参観も、三者面談も、全く参加することがない。町の誰もが参加するような年に一度の二天祭にすら、参加しているところを見ない。家事もしない。母に全てを任せている。その代わり母は外で働くことを許されない。母は、そうやって自分の身に起こっていることを誰にも話そうとしない。母が話そうとしないことを、自分が話そうという気にはなれなかった。母は、話さないことで「何かが起こる」ことから町を守ろうとしていた。「二天様に迷惑はかけられない」と母は話していた。二天様が見ている。二天様に申し訳が立たない。そんなことを繰り返す母。母は"ガマン"していると彼は思っていた。自分一人が"ガマン"しないで誰かに話すということなど許されない。母を裏切ってはならない。彼はそう決めていた。

 父が亡くなってから、母は一切の家事をやらなくなった。彼が話しかけると、母は彼を殴った。数分殴り続けたあと、すぐに涙を流し謝り続けた。それが何度も続いたが、母は家から出ることもなく、最後に生まれた一番下の弟を抱き抱えるだけだった。そしてただ彼が話しかけるたびに彼を殴った。粉ミルクと、紙おむつを買って帰り、家族全員分の食べ物を買って帰り、家に着いて荷物を降ろし、母に話しかけ、殴られた。彼は"ガマン"した。二天様に迷惑はかけられなかった。それを教えてくれた母が彼を殴っても、彼の中でそのことは変わらなかった。あるいは彼の中に、一つだけ思い出があった。いつの頃かも分からないような記憶だった。公園で、母と二人でシーソーに乗っていた思い出だった。母は笑っていた。穏やかな笑顔だった。それ以外のことは何も覚えていないが、笑顔だけは覚えていた。あの笑顔のことを、彼はどれだけ殴られても、忘れることができなかった。

 僕は彼のことを、全て知っていた。彼が教えてくれたのだった。小学校の頃からの友達だった。そのことを聞いたのはほんの少し前だった。全部聞いたあと、なぜ教えてくれたのか彼に尋ねた。彼は、僕なら話してもいいかなと思った、と言っていた。僕はこのことを聞いて、特に何をするわけでもなかった。僕もまたこの町の生まれで、僕の言葉で「何かが起こる」ことは絶対に嫌だった。なぜ彼が僕になら話してもいいと思ったのかは分からなかった。そして、彼の辛さも僕にはあまり分からなかった。彼がその暮らしの中にいることをどう感じていたのか、僕は彼に聞かなかった。聞いた時に「何かが起こる」ことが怖かったからだった。彼はほどなく、自ら命を絶った。

 「あんなにご家族だって泣いているのに、何も死ぬことなんてなかったのに」

 違う。そうではない。彼は飛び立った。二天様の町から、勇気を持って。僕にはそのように感じられた。彼の母は、一番前の列でずっと嗚咽を漏らしている。そうではなく、家族が泣いているから、彼は飛び立つことを選んだのだ。家族との生活を、これ以上"ガマン"することに疲れたから、彼は飛び立つことを選んだのだ。

 僕はそう思ってすぐ、もし僕が仮に勇気を持って「何かが起こる」ことを選んでいたとしたら、彼はどうなっていたんだろう?と頭によぎり、刹那、二天様がそれを打ち消した。