これからの人生のためのメモ54

悩みに悩んで、30冊ぐらいまとめて本を買った。すべて中古で、1万5000円とちょっと。ほんのちょっと前まで、自分で買う本はすべて新品にしていた。自分で付箋をつけたりメモを入れたりしながら読んでいく癖があるからで、中古の本だとそういったことが時に出来ないからだった。中古を買うことにしたのは、少し前に買った中古の本が存外悪くない心地だったことと、背に腹は変えられないというところだろうか。

文字に対する馴染み深さは、他の人に比べて相対的に持っているんじゃないかとは思っている。何だかんだ、20年近く文字を用いた創作に濃淡あれど関わり続けてきた人生ではあった。元々、何かを作ることに対する強い感情があったのだが、それを絵で示したり、図式化するということはどうしても出来なかった。たぶんだが、そもそもの空間認知というものを不得手としているから、奥行きみたいなものを紙の上でも表現できなかったり認知できなかったりするのだと思う。もうすぐ明らかになるのだろうと思っているが、おそらくこれは先天的なものなんじゃないかと感じている。この年になると、おそらく直観とは別の脳を使って奥行きを捉えようとすることはできている気がするのだが相当に時間がかかってしまうことは自覚していて、たぶん軌道修正は難しいんじゃないか。そんな中で、なんとか文字の成り立ちぐらいは身につけることができたのが自分にとって不幸中の幸いとも言えるのかもしれない。

自分の書いた文章が誰かに評価されるというのは嬉しいもので、そんな体験はこれまで何度かあった。そんなことを思い出すと、やはり自分が自信を持って取り組めるのはこの分野なのかもしれないと感じている。あまり褒められることのない生活を送ってきたのだ。ピアノも、学業も、対人関係も、仕事も、そんな感じだった。自分のやりたいと思ったことをやってはいるのだけれど、それが人と繋がる感覚はあまり得られなかった。対して文字や文章は、しばしば褒めてもらえることがあった。そういえば現代文は得意科目だった。そんなことを思い出した時に、自分にとって文字とは誰かに認められうるツール、自分が胸を張って社会に位置づくことのできるツールであるような、そんな気がしているのである。

1年前に備忘録的に書いた記事が、何がきっかけか分からないがマイクロにバズった。久しぶりの高揚感。この類の感情もずいぶん感じることがないものだった。とは言っても創作のようなものではなく極めてビジネスライクな、自己啓発の煮こごりみたいな内容のものなのだし、その煮こごりを散々作り込んだ上で、肝心の味については態度を留保したような書きぶりをしているという何ともビミョーな作りの文章なのだけど。

それがどんなふうにバズっていくかというと、ある人はその「煮こごり」の部分に着目してありがちなビジネス寓話のパターンとして引用していたり、ある人は自分の態度の留保に対して指摘をしていたりする。だが概ね肯定的に受け止められているような様子はあって、「まあそうじゃないんだけどなあ」なんてことを感じたりもする。橘玲のような書きぶりに近かったかもしれない。あのテキストのスタイルは「生理的に受け付けない」という言葉がピッタリだなと感じるくらいには好きになれないのだが、なるほどいくつかの記事を要約して断言的に書いた上で自分の態度は留保していることを暗に示すとそのようになるのだなと。これは学びだな。

ともあれ、久しぶりにネット上で自分の文章がバズったので、なんとなく、自分にも居場所があるんじゃないかなと思えた瞬間ではあった。創作の楽しさ、文章を書くことの楽しさを、もう一度思い返してみたいし、それでご飯が食べていけるのならどんなに素晴らしいことだろうか。