障害を抱えていたとする。その障害によって、他者との間に差が生まれていたとする。何らかの対処によってその差が埋まったとする。いわゆるアファーマティブ・アクション。ところでこの「差を埋める」という行為は一体なんのために行われているのかということを考える。
「差を埋める」という行為がこの記事でいうところのマチズモ的な世界の完全実現という志から生まれているのではないかと感じることがたまにある。我々は顔も名前も知らない人間から一方的に「障害」と名付けられ、一方的に「取り除くための配慮」の中に放り込まれ、それでもって一方的に競争社会への参入を強いられているように感じるところがある。例えばADHDに対してコンサータを処方することで万事解決したかのような言説はそのように聞こえる。
結局自分はいつまでたっても自分の檻の中から抜け出せないのかもしれない。そもそも自分の苦しさ、生きづらさを認識できていない、しようともしない。自分が生きづらいということを認められない。それで何が起こるかというと、懸命に「自分はふつうである」と言い聞かせようとする。だから、例えば寄付をするようなことはしない。これは自分の中でいつまでも滑稽な様態の一つで、さんざん弱者がどうとか社会課題がどうとか言っておいて具体的な行動に移すことをしない。自分の時間を他者に割こうという気持ちにはどうしてもなれない。それはなぜかといえば、自分の語る弱者とは要するに自分の鏡写しだから。そして自分は、勝手に鏡写しにした自分=弱者から目を背けている。鏡の向こうにいる弱者が自分だと「思い込み」したうえで、そんな姿を見ていられない、と放り投げている。社会と向き合えていない。
自分の弱さ、苦しさみたいなものが認められない。でも何が自分の弱さなのか分からない、何が苦しさなのか分からない。これを表現できる言葉を持っていないことが自分の苦しさなのかもしれない。子どもの頃からずっと目立とうとしてきた、褒められようとしてきた。学芸会で主役をやる、学級委員になる、卒業式でピアノを弾く、イケている奴らのグループに入ろうとする、陸上大会のメンバーになろうとする、始業式で作文の発表をする、少年野球のチームに入る、卒業文集委員になる、そんなことばかりやっていた小学生の時代。半分はやりきって、半分はドロップアウトして人に迷惑をかけたと思う。何でやろうと思ったんだろう。中学校に上がってそういったことはやらなくなった、というよりはやらせてもらえなくなっていった。積み重ねとか努力みたいなことができなかったからだと思う。それでも自分の場所はあるのではないかと、いろんな場所にいって、いなくなった。
褒められた記憶があまり残っていない。本当に?少なくとも今の状態ではあまりそれが出てこない。叩かれた記憶ばかり思い出す。ずっとテレビゲームをやっていて、叱られて、隠されて、それを見つけ出してやっていた。親が帰ってくる頃に元の位置に戻した。バレたら叩かれた?いや分からない。そんな記憶ばかりが頭の片隅に残っている。楽しかった記憶が思い出せないのは、それが無かったからなのか、自分の特性のせいなのか、病のせいなのかはよく分からない。
何かしら生きづらさがある。それが何か分からない。認めて手放したらもうちょっと楽になれるかもしれない。例えばこうやって文章を書いて人に読んでもらおうとすることとか、社会に対して何か働きかけようとするポーズを取ることとか。けど手放すことが自分にとって良い結果をもたらすとはとても思えない、それは何というか、自分が苦しくなってしまう社会を自分自身が認めてしまうような、そんな気がするから。それは何だか、死と同義であるように思えてならない。そこで自分の人生は終わり。まあそもそも人生に何か意味があるかと言えばそんなこともない...と書いてみたところで、しっくり来るわけでもなく、自分はやはり、自分の人生に何か意味を見出したいのだ。だが、いくら見出そうとしたところで、結局見出せないところに帰ってきてしまう。そして死ぬのか。まあ死ぬんだろう。
周りにそうは見えなくても、自分は自分なりに、何かに対してファイティングポーズを取り続けていないと、ダメかもしれない。そうでない自分が想像できない。消極的反抗すらも取らなくなっていくような自分とは果たして何であるのかが分からない。社会的には大した意味もない、誰からも祝福されることのないような、自分だけにしかわかることのない抵抗。寄付はしないとか。寄付という行為がよく分からない。でもそれは日本人の大多数がそうで、自分だけの感覚ではない。でもそこに、自分は自分だけの意味を見出そうとしてしまう。統計的に見れば、なんのことはない一様態に、自分だけのオリジナリティを求めようとする。倒錯した唯我独尊。「鉄塔のひと」を少し思い出した。
いつまでも自分の殻から抜け出せないでいる。過去の記憶を辿り続けている。清算したつもりでいたのに戻ってくる。トラウマ。トラウマがある、それだけは自分のオリジナリティ。トラウマに依存する。それで何か解決ができるわけでもない。オリジナルなトラウマを吐露したところで祝福がもらえるわけでもない。そうだ、自分が苦しいのはそれなのかもしれない。自分であることを唯一保証してくれるのが、過去の自分のトラウマ以外には何もないのだ。それ以外は全て、誰かと代替可能なパーツに過ぎないのだ。社会からは祝福されないオリジナリティを誇って生きていこうとする自分自身が、ひどく哀れに思えてならないのだ。トラウマに依存している。トラウマがあることで自分は生きていられる。それが辛い。
オリジナリティがあるからこそ認められる、褒められるという思い込み。でも、オリジナリティを求めて手にしたものはどれもレプリカ。最終的にオリジナリティを手にしたら、今度はそれがそもそも認められるものでないことに気づく。オリジナルだから認められるわけではない。その瞬間の絶望。絶望。絶望。
子どもが生まれたら何か変わるのだろうか。でも、そんなことのために子どもを欲する自分は、正直あんまり許せない。